タイ、ラオス、カンボジアの旅

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ここの旅行記とあわせてタイ・カンボジア・ラオス旅行マップ(mapa.jpg byte 掲載もご覧ください。


タイ・ラオス・カンボジアへの旅から帰国

 96年7月20日から8月3日まで、タイのバンコク、カンボジアのプノンペン、タイのアンコールワット、ラオスのヴィエンチャン、陸路を渡ってメコン川の対岸がラオスであるタイのノーンカーイと、15日間一人旅でいろいろまわってきました。

 今から考えると、カンボジアではいろいろなことが有り過ぎました。この蔵ネットでは書くことが出来ないことなど、今から考えると恐ろしいことも多かったです。ちょうどカンボジアに居たときに、日本人も殺されていたようですし・・・・・

 その延長なのか、3日に関西空港にもうじき着陸というときになって、機長が「緊急着陸の飛行機があるので、この飛行機は15分ほど到着が遅れます」というアナウンスを行って、しばらく大阪湾をぐるりぐるり・・・

 それで帰りに乗ろうとしていた彦根までのリムジンバスには乗れず。JRの関空快速で大阪駅まで乗り、新快速で米原まで行帰ろうとしました。 能登川駅を過ぎて河瀬駅を過ぎてもうじき米原に到着というとき、車掌の「人身事故が起こりましたので、止まります」というアナウンス。どうなったのかわからないがまったく動く気配がないので、一番後部の車両にいたら、外に出ていた車掌が帰ってきて、「作業員(保線の)を3人はねて、手足がバラバラ。2人分はわかるが、もう一人分がわからずで、警察が現場検証が終わる気配がない」ということで、またされること3時間。警察が入ってきて、住所や氏名は聞かれるは、外に妙な明かりが見えると思えば事故を取材に来ていたTV局などで、9時に米原に着くはずが実際には夜12時。おかげで普段は隣同士で口をきかない者同士がいろいろ話をして、まったく知らない長浜の人に長浜駅まで送ってもらうことができました。

 今回の私の波乱含みの旅は日本に着いてからも続いているのでした。

*今回はいろいろと面白い旅行記ができそうです・・・・


タイ・ラオス・カンボジアの旅行日程

 恒例となった私の海外への旅、パックツアーの表面だけの殿様旅行をしている日本人に飽き飽きしている私は、いつものように衣類が詰まったカバンと航空券だけを片手に1997夏一人で出かけました。今回の行き先は、タイ、カンボジア、ラオスの3カ国の予定で。

 旅行の行程は次のようになりました(タイへの航空券しか持たず、後はカンボジアやラオスに行くことを予定していただけで、日程は行ってから自然と決まった)。

      関空 => タイ・バンコク =>
      水上マーケット・クワイ川鉄橋 =>
      タイ・バンコク => カンボジア・プノンペン
      => アンコールワット => プノンペン
      => ラオス・ヴィエンチャン => タイ・ノンカイ
      => タイ・バンコク => 関空

 目玉はカンボジアで、いまだに政情不安、そして治安もあまりよくありません。でもその不安や緊張感がたまらなく私にとっては刺激となりそれがいつの間にか快感に変わっていくのです。人々はたくましく明るく楽しい人々ばかりで、本当に楽しくカンボジアをまわることができました。

 ラオス、首都ヴィエンチャンは、静かで緑が多く、危険もまったく感じないところで、普通ならとてもいいところなんでしょうが、タイの活気、そしてカンボジアの緊張感や怪しげな雰囲気にから比べると本当に退屈なところでした。3日ほど居て、すぐにタイに戻ってしまいました。

 タイは、活気に満ちあふれた国です。バンコクは完全な大都市、そして私が気に入ったのはラオスとメコン川を挟んだ国境の町”ノンカイ”です。ここは町がどこともなく日本の雰囲気に似ており「ホッ」とした安心感を感じます。このノンカイでは毎日が楽園、食っちゃ寝ののんびりした生活を過ごしました。

さてさて、今度は何処へ??


日本を出国、そしてタイへ入国

 前々からカンボジアに行ってみたいと思っていたが、今年はとうとうその機会が訪れた。カンボジアのプノンペンやアンコールワットをメインに、ラオスの首都ヴィエンチャン、時間があればタイの各地もまわることも予定した。とりあえずタイのバンコクまでの往復航空券のみを日本で購入、他の地域への移動のためのチケットは現地で調達することにした。

 日本円で7万円と米ドル$600を握りしめ、7月20日昼過ぎに家を出発して、新快速と関空快速を乗り継いで関空に到着。夜7時過ぎ、関西空港を飛び立った飛行機は、現地時間(時差ー2時間)夜10時50分ごろタイのドンムアン空港に到着した。

 空港はもうに着くと、いつものことながらどきどきする。ドンムアン空港はもう3回目なのだが、それでも見慣れないちょっと黒々とした多くの顔が入国手続きを済ませた私を出迎えてくれるのには緊張する。彼らの手には日本語や英語で書かれたホテルの名前、個人の名前などの紙を持っていて、到着した人々を待ちかまえていて、どの顔を私を見つめているような気がするのだ。緊張しながら人垣を分けて通り過ぎると今度はタクシーやホテルの勧誘の人々が声をかけてくる。

 とりあえず、空港の両替所で1万円をバーツに換金、だいたい1バーツが4.4円ぐらいだ。緊張したのかトイレに行き用を済ますが、このときタイのバンコクのみが書かれたガイドブックをカバンから落としてしまい、すぐに気がついて戻るが見つからなかった。他に東南アジア各国に書かれたガイドブックを持っているのだが、タイ特にバンコクについては少ししか書かれていないので少々不安だ。

 市内まではバスに行こうと、空港内のインフォメーションで「バスはまだ走っているのか? カオサン通りに行くには何番のバスか? 乗り場はどこか?」となれない英語で聞いた。親切に教えてもらったとおりに、空港を出て乗り場を探すがよくわからない。その間にもタクシーの運転手が暗闇からどんどん声をかけてきて不安を増長させてくれる。そのうちバス乗り場の案内板を見つけて進んでいくと、空港前の大きな道に面したところに人が集まっており、どうやら乗り場のようである。ホッとしてタバコで一服した。

 乗るバスは59番、しかし他の番号のバスは次から次へと来るのだが、この番号は来ない。相当待ってまた不安が高まってきた頃、横に日本人らしきものが大きなザックを背負ってやってきた。思わず「日本人ですか?」聞いてしまい、彼は「はい、日本人です」と答えたので不安は薄らいだ。彼も今晩はカオサン通りに行くということなので、同じ59番のバスを待った。

 やっと59番のバスが来て、彼と一緒に乗り込む。夜の街をひたすら走るバスはよくわからないバンコク市内を走り、どこで降りたらいいのか不安になる。車掌が円筒形の金属の筒を持ってジャラジャラ音をさせて近づいてきたので、50バーツ渡す。円筒形の筒を開けたので見るとお金や切符が仕切られて入っており、その中からお釣り45バーツ、そして小さな薄い紙切れの切符を渡してくれた。

 カオサン通りに行く理由は、ここには安宿、また格安航空券の販売や各種のツアーを開催している旅行代理店が集中しているからだ。しかし、どこで降りたらいいのかわからないので、車掌や隣に乗っていた乗客などに何回も確認した。そのうち車内に乗客が減ってきて、大きなザックを背負った西洋人のカップルを見つけた。彼らもカオサンで降りるに違いないと思い、近くに座り直した。話しかけてみるとやはりカオサンで降りるとのこと。相当走った後、車掌が「カオサン」と言ったので、我々日本人2名と西洋人のカップルはセブンイレブン近くのバス停で降りた。いっしょに歩いていきくと、西洋人が現地人にカオサンを聞いていた。カオサンは意外と狭い通りであるようだ。

 カオサン通りに向かっているとき、暗い路地の向こうに「7 HOLDER GUEST HOUSE」という電灯のついた看板が光っているのを見つけた。我々2名は吸い込まれるように向かう。その安宿の前に行くと、中からおばちゃんが出てきたので、料金を聞くと一泊シングルで120バーツ、ツインで200B。少々迷ったがもう時間は午前1時近くであったので中に入ることにした。部屋は彼と同室にすることにして、パスポートを出して宿帳に必要事項を記入、そして部屋に案内された。部屋は一応窓があるのだが、ほとんどないに等しく、天井には大きなファン、そして換気扇、壁の天井近くは網が張られて熱がこもらないようにはなっているが、隣の部屋の音は丸聞こえ。シャワー(水のみ)やトイレは共同となっている。

 部屋でファンを回すと意外と涼しく感じる。靴を脱いで、ベッドに横たわりながらタバコを吸ってかなりリラックスしてきた。もっとリラックスするにはビールがほしいが、買いに行かなければならない。すると彼が先ほどのセブンイレブンまで買いに行ってくれ、その間に今日来ていた衣類をボディーシャンプーを使って洗面所で洗濯、しばらくして彼は買って戻ってきた。ビールを飲みながら彼と話をするが、彼は東京で広告代理店の仕事をしていたが、仕事をやっていることに疑問を持ち始め、何となく海外旅行をしたい衝動にかられたのを機会に仕事辞めて出てきたとのこと。タイやインドを3ヶ月ほどまわるということだった。彼もまた空港でバス乗り場がなかなか見つからなくて困り、僕を見つけたときにはホッとしたということだった。

 いろいろ話をする間に時間はもう午前3時、もう寝ることにした。今後のどうなるかまったく予想がつかない旅の夢を見ながら・・・・


カオサン通でカンボジアやラオスへの航空券ゲット

 21日、タイのバンコクについて初めての朝、トイレに行きたくなって目が覚めた。まだ時間は6時半で少々早い。タバコを吸いながら廊下の窓から外をながめるが、もう街は動き始めているようだ。

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、彼も起きていた。彼もまたシャワーを浴びたあと、いっしょにカオサン通りを歩くことにした。時間は8時、まだ早いのかまたは日曜日ということもあるのか、まだ人通りも少なく、飲食店以外は開いていないか準備で忙しいようだ。ゲストハウスや旅行代理店を多く見かけ、歩いている人はさすがにカオサンだけあって西洋人、そして日本人もよく見かける。

 いろいろ見て歩いた後、カオサン通りの端にある飯屋に入った。ここでは麺が中心であるようだが、あの日本で不評だった細長くて粘りけのないタイ米の上に野菜や肉を煮込んで独特のスパイスの利いたものをぶっかけたものを多くの人が食べているようなので、我々も同じものを注文した。少々においが気になったがそこそこおいしく食べられた。お茶を飲んでいる人も多いようで、持ってきてもらう。お茶はタダだ。二人で50バーツほど払って、再び街を歩く。

 取りあえずカンボジアへの航空券がほしいので、旅行代理店を回ろうとするが、うまく言葉が通じるか不安であったところ、ふと日本語でかかれた看板を見つけた。その看板には「日本人のスタッフがいます」と書かれているので建物に入ると、いくつかの小さな旅行代理店のカウンターが並んでおり、その奥に「M.P.ツアー」という日本人のいる旅行代理店を見つけた。カオサンには、詐欺紛いの代理店もあってトラブルも多いと聞いているので、最初は疑ったが、とにかく話をしてみた。カウンターには森という日本人がいて、少々顔つきが胡散臭そうな感じがしたが、いろいろ話をしている間にも、多くの日本人がやってきて、次から次へと航空券を注文したり航空券を受け取ったりしている。客としていろいろな日本人が来ていたので、いろいろな話をして情報交換をしてみる。ここは、他の旅行代理店より値段は少々高めかもしれないが、日本人ということでいろいろ話は聞けるし、取りあえずお金を持って逃げられることはなさそうという確信を得られた。

 私がカンボジアのプノンペンとラオスのヴィエンチャンに行きたい旨を言う。バンコクからプノンペンが3050バーツ、プノンペンからヴィエンチャンが3600バーツということ。ガイドブックに乗っている目安の料金と比べると安いようなので、頼むことにした。ただ、本日は日曜日なので翌22日の昼頃しかチケットは取れないし、カンボジア行きの飛行機は23日になるということ。また、カンボジアのヴィザは空港で$20で取れるのを知っていたのでよかったが、29日にプノンペンからラオスに行くときに必要なヴィザがタイで取ると高いので心配していたら、プノンペンのラオス航空のオフィスに行けば簡単に取れるということ(まさかならプノンペンのラオス大使館に行けば確実に取れるが)。お金は米ドルや日本円ではなくタイ・バーツでほしいということなので、手持ちにはそれほどバーツがないので、近くの両替商で3万円をバーツに換金して支払った。チケットの受け取りは明日の昼頃として店を出た。


バンコクのよくわからない所

 さて、今度はバンコク市内に繰り出すことにした。特に寺院や宮殿には行きたいとは思わなかったが、タイ式ボクシングをみたいとは思っていた。そのとき英語で話しかけてくるタイ人がいた。ボクシングの話をすると時間は夜の6時からということでまだまだ時間がありすぎる。他に面白いところがないか聞くと、「君たちはラッキーだね。”マニカン”というのがあって、年に一回3日間ほどの期間やっているのでぜひ行くべきだね」ということ。そのマニカンというのは何なのかはよくわからなかった。よほどいいところらしいので行くことにすると、親切にもそのタイ人は、バスで行き方も教えてくれて乗り場までも連れていってくれた。

 バスに乗り、3.5バーツほど支払うが、どこで降りたらいいのかわからないので、前にいた乗客に”マニカン”の降り場を聞くと、ここでも「君らはラッキーだね」と言われる。よほど有名なところに違いないと思われた。彼はいろいろ英語で話しかけてくる。そのうち降りるところを教えてもらい降りる。

 ここで行き方がわからなかったが歩いていると、英語で話しかけてくる者がいる。「マニカンはどこ?」と聞くと、彼は「なぜ行くの?」と逆に問いかけてくる。いいところらしいと聞いたことを告げると、親切に道を教えてくれた。

 しばらく歩いていると、携帯電話を持った者が電話をしている。その横を通り過ぎようとすると、彼は「時間は何時?」と自分の腕時計を差し出して見せてくるので、私の時計を見せながら「同じ時間だよ」と答える。彼と”マニカン”の話をすると「おお、ちょうど私もそこに行くところだったんだよ」と親しげに話してくる。そしてシステム手帳を開けて、自分の身分証を取り出して、「ほら、ここに大学の先生と書かれているでしょう。私は大学で教えているんだよ」と見せてくる。いっしょに歩いていく途中にあった店で「ここで飲み物を買って一緒に飲みましょう」と言う。日本人の彼と、このタイ人、そして私はビールを買うが、歩きながら飲もうとするが、近くにあった寺院の木陰で休みながら飲もうと言う。

 その木陰で飲んでいると、タイ人の彼は、自分の身分証をよく見せながら、大学の自分の部屋の図などを書いて、「こんど訪ねてきてください」と言わんばかり。そしてタイの国王と会っている写真を見せたり、自分のクレジットカードを見せたりと、自分は「悪い人じゃないよ」とアピールしているよう。次に”マニカン”の長い説明が始まる。英語で話しながら、そして紙に文字や図を書きながらの説明だった。そこでわかったのは”マニカン”というのは、その期間税金を安くして宝石などを売っているということだったのである。「こんなことなら来るんじゃなかった!」

 再びいっしょに歩いて行くと、ある建物の前について「ここがマニカンだよ。ここが宝石などを加工したり売っているところだよ」ということ。建物の前には各種クレジットカードのマークが張り付けてあり、そうとう値段が高いのか?中から女の人が出てきたとき、店内の宝石などがチラッと見えた。「中にお入りよ。問題ないよ」という言葉だったが、何か騙されているように思えるように感じた我々2名は入るのをためらい、「僕たちは宝石には興味ない」と入らなかった。すると大学の先生と称する彼は「それじゃね」と握手をしてきて、すんなりと別れることができた。

 バスを降りて道を聞いた人はのぞいて、最初教えてくれた人、そしてバスに乗っていた人、特に最後の大学の先生という人、それぞれがつるんでいて、我々に宝石を買わせようとしたように思えてならない。特に大学の先生と称する人の近づき方なんで、本当にわざとらし過ぎる・・・。

 変な気分だったが、バス停近くのセブンイレブンで水を買ったり、屋台のうまそうなお好み焼きのようなものやぼた餅のようなものを買うと気分はスッキリ、再びバスに乗ってカオサン通りに戻る。

 でもマニカンって・・・何だったの???


戦場に架ける橋」と水上マーケットへのツアー

 7月21日の午後、”マニカン”からカオサンの安宿に戻ってきて、同室の彼と今後の日程をガイドブックを見ながら話していたら、映画”戦場に架ける橋”で有名な”クワイ川鉄橋”のあるカンチャナブリへ行く日帰りツアーがあるようだ。このツアーには、タイの国鉄が鉄道に乗って行くもの休日に開催しているものと、普通の旅行代理店がミニバス行くように開催しているものとがある。さっそくカオサンの”M.P.ツアー”に行って聞いてみると、バンコクから80km離れたダムナン・サドワック水上マーケットとクワイ川鉄橋の両方に行って昼食付きで398バーツで毎日出発しているということ。今申し込めば明朝のツアーに間に合うというので早速申し込む。

 翌22日朝、指定された建物の前に待っていると、相当古いアメ車から降りて来た者が我々2名に声をかけてきて申し込み書を確認する。他にも日本人の女の子2名もそのようだ。さっそく我々日本人4名はオンボロ車に乗り込む。

 車はバンコクから離れて行く。途中、ISUZU、HONDA、TOYOTAなど日本のディーラーを多く見かける。また我が日本のタバコ”マイルドセブン”の看板をよく見かける。日本でもおなじみのミシュラン・タイヤの看板も見かけたが、ここには例の”タイヤマン”(?)が描かれているが、それがタイらしく合掌しているタイヤマンもあったのは面白い。またガソリンスタンドも日本でおなじみのメジャー系を中心にタイ系のPttなども見かけるが、非常に大きなスタンドが多く、そしてスタンドの敷地内にはコンビニが併設されていて買い物もできるようになっている。

 その1つのスタンドに我々の車は入った。給油しているとき、運転手は「おまえはクワイ川に行くのか?」と絵葉書を見せながら聞いてくる。女の子2名は水上マーケットだけのようである。

 再び車は疾走、ここの幹線道路は信号がなくて、高速道路のように立体交差してスムーズに走れるようになっている。そのうち信号のある町を通り、周りはジャングルのようなところに来た。しばらくして水上マーケットに到着。

 水上マーケットでは、細い水路上で、手こぎの小舟に乗った多くの人々がフルーツや野菜、そしてあらゆるものを載せて動き回っている。驚くことに、小舟の上で炭火やガスをたいて飯や麺類そして焼き鳥などを調理して熱々のものまで売っている。しかし、見たところ私が以前にベトナムのメコンデルタで見た水上マーケットに比べると相当貧弱なように見えるのは気のせいだろうか。

 取りあえず我々4名は、近くの小舟を400バーツでレンタルしてまわってもらうことにした。おばあちゃんが操る小舟は、ひしめき合っているところを器用にすり抜けそのうちジャングルの本当に細い水路に入り、そこの小さな船着き場に到着。到着するなり我々の前に見えたのは大きなにしき蛇。私の首に巻き付けてくれ、気持ち悪いことはないが、とても重い。いろいろ記念写真を撮ったりしていたが、横で「ココナッツジュースはフリーだよ」と言っている。「何でタダなの?」と思ったら・・「蛇の代金、500バーツおくれ」とは。これは詐欺ではないか! 粘って150バーツに値切り、ココナッツジュースが150バーツで飲み放題と割り切り、我々4人は何杯も飲んでやった。再び小舟に乗り込み、マーケットの中心部へと戻った。今度は水上ではなく、歩いてマーケットをまわったが特にほしい物も見つからなかった。

 また車に乗り込み、タイの名産品の製造・販売している小綺麗な建物がたくさんあるところに到着。ここでクワイ川鉄橋に行く我々2名は「別の車が迎えに来るので乗り換えろ」と運転手が言う。女の子2名はここからバンコクに戻るようだ。「問題ない」とは言われるものの、どの車なのか不安に思っていたところ、運転手が今度乗り換える車の乗務員を紹介してくれて安心することができた。ここでは特に興味のあるものはなかったので出発の時間までベンチに座ってタバコを吹かしながら待つことにした。

 時間になって我々2名は乗務員に案内されたワゴン車に乗り込む。ここにはアメリカ人1名、イギリス人夫婦、フランス人のカップルがすでに乗り込んでいた。

 車はクワイ川鉄橋のある町、カンチャナブリに入り、鉄橋の博物館に入る。料金は自前である。入り口にはここの博物館の案内した紙が日本語や英語など各言語で書かれているものがあった。もちろん日本語の説明を持って中に入る。建物は当時日本軍の捕虜が住んでいた建物と同じ造りになった草葺きのものである。建物は3つに分かれており、1つは当時から現在までの写真や絵などが展示されて、タイ語、英語、そして日本語などで過酷条件で捕虜を使って橋が作られたことを伝えている。他の建物は、日本軍や捕虜が使っていたいろいろな品々が展示されていた。

 また車は移動する。そして今度はランチだ。クワイ川沿いの木々に囲まれた草葺きのレストランのテーブルに我々7名は腰掛ける。テーブルにはいくつかの皿に何種類もの中華風に炒めたものが入っており、白いタイ米が盛られた皿に、それをかけて食べる。それがまた旨いこと。思いっきりお腹が空いていたので「I'm hungry」を言いながらご飯をお代わりしたらみんなに笑われてしまった。その中のアメリカ人は、車の中でいやに”Japanese”という言葉をフランス人のカップルと話していると思ったら、現在日本に住んでいるのだそうだ。それで日本語もいくつか我々に話してきた。

 さらに車は移動する。すると日本でもよくある大きくてきれいなドライブインかお土産屋のようなところに行き、そこの駐車場に止まった。ふと横を見ると「おおっ! クワイ川鉄橋」。

 旧日本軍が太平洋戦争時、だんだん日本軍にとって戦況が不利になってビルマ戦線(現ミャンマー)にタイから軍事物資を輸送するのにためには陸路からしか手段がなくなってきた。そこで泰緬(字は間違っているかもしれない)鉄道というタイとビルマを結ぶ鉄道を日本軍に捕虜になっていたイギリス軍、オーストラリア軍、アメリカ軍など何万人もの人々を使って建設した。この工事は過酷なもので栄養失調やマラリヤなどで多くの捕虜が亡くなった。特にクワイ川鉄橋は難所のようであったようだ。最初この橋は木造で作られ、後は鉄骨によって作られ、何回も爆撃によって落とされては作り直されたようだ。戦後、この鉄橋は、直され、鉄道は地元の人々の足として使われてきた。ただし現在ミャンマー側の鉄道は取り外されて行くことができない。

 感動のあまり写真を撮りまくる。鉄橋には丸い部分と角張った部分があって、丸い部分が戦時中日本軍によって作られたところである。しかし私がイメージしていたのは、山間部の川に架かる橋であったが、ここはほとんど平地なのだ。こちら側はまったく公園として整理され過ぎて、日本のC56蒸気機関車やその他の機関車などがきれいに展示され、先ほどのきれいなおみやげ物屋といい、日本の観光地のイメージそのものである。クワイ川鉄橋は今でも列車が通っているのかは不明だが、多くの数え切れない人々が歩いて対岸まで渡っている。向こう岸は、自然が多く残っているが、下には多くのお土産物屋が軒を並べており、生きているゾウがいてお金を払えば乗ることもできる。

 十分鉄橋を満喫した後、我々を乗せたワゴン車は再び動き出す。今度はこの鉄道建設に携わって亡くなった捕虜だった人々の墓地だ。ここはきれいに芝生が植えられ、広大な場所に数え切れないほどの墓標が見え、その数にただ驚くばかり。その墓一つひとつには、名前、国、亡くなった日などが刻み込まれており、きれいな花も植えられている。

 今度はやっとバンコクへの帰路に向かうのか? と思ったら途中”???パゴダ(注)”というカンボジア調寺院にも立ち寄った。ここでは仏像などにみんなが金箔を貼っている。あまり興味がなく、しばらくブラブラ見て回った後、7バーツほどのアイスクリームを食べて、さらに我々の車の近くに焼き卵(殻のまま焼いたもの)売りがいたので、3個10バーツで買う。東南アジアに多い”羽化しかかった卵”かと思ったが、普通のゆで卵みたいなものでちょっとがっかり。車はまた動きだしカオサン通りに戻った。

 今日のツアーはなかなか充実したものであった。

(注)パゴダとは、東アジアにある宗教的な塔を指す言葉。語源は不明だが、
   西洋人がいつのときからか言い出したもので、日本の五重の塔もパゴダに含まれる。
   タイやカンボジアなどの寺院などには”xxxパゴダ”という名称のものが多い。
   また、タイ、カンボジア、ラオスなどにある寺院のことをWAT(ワット)と呼ぶ。


カンボジアへ入国

 バンコク市内を走り回っている数多くあるバスは番号で行き場所を示しているが、現地の人でもよくわからないよう。カンボジアに行くために空港までは数十円でいけるのでバスで節約して行こうとした。しかしいくら待っても目的の番号のバスは来ないのであせってきた。
そんなおり、たまたま航空券を買ったM・Pツアーの森さんに出会った。「今からだとバスでは間に合わない可能性があるのでタクシーで行った方がいい」ということで、タクシーと止めてもらって乗り込むことにした。

 バンコクの道は世界で一番の混雑しているというば、タクシーはその混雑した道をさけて細い路地を走り抜け、思ったよりも早く空港に到着した。

 例によって、出国手続きをして飛行機に乗り込み飛び立った。飛行機は1時間ほどでプノンペンに到着。この国の玄関であるはずの空港は本当に小さく、タラップを降りて入国審査のカウンタまで歩いていくのだ。プノンペンへの入国は、空港で$30ほどで入国ビザを取得できるので、機内で渡された用紙に記入しておけばいいのだが、わからない項目があり、日本人の女子大生のグループがいたので聞くが、彼女らもよくわからないらしいのでそのままにしておくことにした。ビザ取得のカウンターで書類やパスポートそして代金を支払うが、何名かの職員がいて流れ作業になっていて効率よくビザが所得できるようになっている。入国審査も終わり、次の税関のゲートでは審査もなく完全な素通りである。

 空港の外に出ると、ここでも相変わらずのタクシーやバイクタクシーのお出迎えである。その前に現地通貨に換金する。中の女の子は意外とかわいい子で、両替したときに笑顔で何か話してくるがよくわからないので聞き直すと「こんにちは」と日本語で話してくるではないか。こちらも笑顔で「こんにちは」というと、隣にいた別の女の子と「挨拶ができた」とばかりに喜んでいた。

 さて、プノンペン市内に入るために、先ほどのタクシー連中と交渉することにしたが、彼らも必死で大勢が群がってくる。その前に泊まるホテルを決めるために、先ほどの日本人の女の子たちと「どこに泊まるの?」と聞くと「Captol」ということ。ここはガイドブックにも載っており、ポピュラーらしいので僕も同じところにすることにした。バイクタクシー連中と交渉してそのうち$1で連れていくというバイクタクシーと商談成立、スーパーカブの後ろに乗り込み、荷物は彼の足下に挟んで走り出した。

 空港をでたタクシーは風を切って市内へ走っていく。日本人の女の子たちもバイクタクシーに乗せてもらって走っていく。結構距離があっただろうか、目的の「capitpl」までたどり着く。

 プノンペン市内、特にCapitol近辺は本当に人も多くごみごみして汚らしく、道は舗装されていない。ここでもホテルから出てくる者を待ちかまえているバイクタクシー連中が多数たむろしている。

 ここでホテルに入ってチェックインするのだか、その前に連れていってくれたバイクタクシーに待ってもらうことにした。カンボジアの次の国であるラオスビザを大使館で取得しにいくためだ。

 ホテルは1階がレストランとなっていて、横の細い通路を上がって2階に行くと、小さなカウンターがある。宿泊を申し込むと、当然のことながら空き部屋があって(海外で泊まれないことはほとんどない)、$3の一番安い部屋にする。部屋は、建物の外に面した窓はなく、シャワーやトイレはなく(共同使用)が私にとっては十分なものだ。天井には大きなファンがぶら下がっているので暑さをしのぐにも十分である。

 外に出てさきほどのバイクタクシーに乗り込んだ。ラオス大使館に連れていくように言って走り出したバイクは市内を駆け抜けていく。そのうちきれいな宮殿の近くを通っていき、ある建物の前に止まった。しかしここは大使館ではなくラオス空港のオフィスであり、とりあえずラオス行きの飛行機はこの会社のチケットなのでリコンファーム(予約再確認)することにした。小さな建物の中に入るとコンピュータの前に座った一人の男がおり、リコンファームを頼む。彼はリコンファームは大丈夫だが、ビザはどうするのか聞いてくる。「もっていない」と言うと、$45でここで取れるから申し込めという。大使館で申し込めばもう少し安いみたいだが、面倒なのでここで申し込むことにする。しかし、カンボジア初日でこれから少なくとも1週間は滞在することになり、これから先の旅でも必要となるであろうパスポートを預けてしまうのは不安があったが、職員は「パスポートの預かり書を見せれば大丈夫」という。まあいいだろう。

 航空会社のオフィスを出て、バイクタクシーは市内観光に行かないかというので、$3で交渉成立いろいろ回ることにした。一般の者は入れない宮殿の横にある寺院に入るが、そのときさっきまでウエストポートにぶら下げておいたカメラがないことに気がついた。どうやらカメラのサックからこぼれて落ちたようで、どこで落としたのかまったく心当たりがない。カメラを失ったことよりも、そのなかに入っていたいろいろ撮ってあるフィルムがなくなったことの方がショックである。寺院を出た後、バイクタクシーにカメラ屋に連れていかせる。カメラ屋は近くにあって、中に入ると日本製のものや、そして$30ほどの怪しげなカメラが何種類か置いてあった。そのなかで「chinon」ブランドらしき$30のカメラを買うが中国製のあまりにも良いとは言い難いものだが、写真が撮れるようになるだけでもましである。買って使ってみてわかったのだが、このカメラはふたを開けるレバーが飛び出しすぎており、使用している最中に開いて無駄になったフィルムのコマが何枚もできるというのも悲しかった(後でセロテープでこのレバーを固定することで何とか解決)。


プノンペン市内のマーケットと亀

 私が海外旅行で買い物をする場所と言えば、どこの地区でもある”xxxマーケット”と名のついたところ。このような場所では庶民が使う品々が多くあって、お土産にもってこいの物も多いのです。

 カンボジアのプノンペンでもいくつかのマーケットがありました。一番大きなセントラル・マーケット、ロシアン・マーケット、宿のすぐ近くにあったオルセー・マーケット、他にも中心部から離れたところにもマーケットがありました。

 セントラル・マーケットは、中心部にあって屋根付きドーム状の大きなところでした。食料品から電化製品、宝石、衣類などありとあらゆるものがそろっていました。ここでは”タッパー”しか買いませんでした(なぜタッパーを買ったかは後で述べます)。

 ロシアン・マーケットはちょっと中心部からはそれますが、建物の中にゴチャゴチャといろんなものを売っていました。ここでは比較的隣国から入ったと思われる品々があり、ベトナムからの漆器(ベトナムで漆器は嘘みたいに安く、行ったら是非どうぞ)や偽物ジッポーライター(これも昨年ベトナムでお土産用に大量購入してきたヤツと同じ)も見つけました。また友達の嫁さんや職場の女性連中(おおコワー)から頼まれていた銀製品やヒスイ製品など(ヒスイ製品は$1ぐらいから銀製品は$3ぐらいから。$5も出せば相当いいものが買える)もここで大量に購入しました。

 そして郊外の空港に行く途中にあったマーケット(名前は忘れた)では、何とカンボジア軍からの放出品(正確には軍からの横流し品みたい)が大量にあるみたいでした。ここでロシア製のAK−47(確かこんな名称だったか)という自動小銃の実弾が一発700リエル(日本円で¥30弱。射撃に行くときに、ここで100発の実弾を買ったのだ)、アメリカ製自動小銃M16用実弾が一発600リエルくらい(これは人から聞いた話)、他には兵士の帽子(各種$1)、兵士のベルト($1)、警察官が左右の袖に縫い込んでいるワッペン($1)、警察官の胸につけているバッジ($1)、シャツ($4くらい)、その他各種軍服、ブーツ類などすべて本物新品がいろいろ売っています。ここで弾が売っているくらいですから、もしかするといろいろな兵器もここでは手に入るのかもしれません(おおコワー・・)。(金額がちゃんと書いてあるものは私が買った物です)

 ここも中心部にあるオルセー・マーケットですが、ここは道の左右にテントを張ってできたところで、みんながいろいろな物を持ち込んでいる庶民のためのマーケットという感じでした。売っているものは食料品や衣類が中心で、後は訳のわからない漢方薬風の店、仏具関係を売っている店、そして金製品を売っている店がありました。ここではおかしなものを見つけました。特に漢方薬風のの店では訳の分からないものが多く並んでおり、カブトガニの干したもの、カエルの日乾し、そしてあれはどう見てもマリファナたばこ風にしか見えないもの(噂には聞いてはいましたが)・・・。そしてここの魚屋さんと思われるところ(生きた鰻などの魚類や生きたカエルなどもあった)で生きたカメ(たぶん食用)が大きなプラスチックの何十匹と入って売られていました。私はこの可愛いカメがほしくなって$1紙幣を出すと店の人は2匹をビニルの袋に入れようとしたのですが、小さな一匹だけを買いました(もちろんお釣りはしっかりともらいました)。

 このカメは日本に帰ってから名前がわかったのですが、”ニシ食いガメ”(和名を名付けたのは昔あった”わくわく動物ランド”によく出ていた”千石さん”だそうです)。水田や湿地に多いらしく、珍しいカメではないのですが(もちろんワシントン条約にかかるカメでありません)、タニシなどの巻き貝を食べ(それでニシ食い)、日本などでは飼育は相当難度が高いため人気がないそうです。特徴は頭が大きく(巻き貝を食べるために)、背中には3つの隆起した筋があり、体は黒っぽくて黄色い縞があります。

 実は(こんなこと書いていいのかな??)、その後私の旅行のお供をして(セントラル・マーケットで買ったタッパーはコイツを入れるためだったのです)、ラオス、タイ、そして日本へと来て、私の職場の水槽で飼われていたりするのです(職場には世界のカメを飼うカメ・キチ君がいて、ぜひもって帰ってきてくれと・・)。タニシを与えたところ食べてうまく食べてくれて半年たった現在でも生きています。この亀は日本での飼育した場合2ヶ月ぐらいで死ぬことが多く、現在世話をしている職場のカメキチ君はみんな(亀好きの人々)に自慢しているそうです。


そしてカンボジア・・・・

 プノンペン、昼間は大丈夫(?)でも夜は危険だと言われています。特に夜の一人歩きは禁物で(フランス人だったかの女性がレイプされたこともある)、複数でも夜遅くは危ないという話です。いろいろ事件があったらしく今では夜9時ともなると閉まってしまう店なども多いそうです。

 どこかホテルにいれば安全かというと必ずしもそうでもなく、私がカンボジアにいる7月25日ぐらいにプノンペンで日本人がホテルの部屋に訪ねて来た者に刺されて殺されたという事件があり、その話が私の止まった一泊$3の安ゲストハウスの日本人の間で相当な話題となっていました(殺された日本人は旅行関係の仕事をやっており、部屋をノックする者がいるので開けると、いきなり刃物で刺されたとか。仕事上の怨恨によるものみたい)。また私の泊まった安ゲストハウスでも昨年末発砲事件があったようです。

 でもそこは出歩きたい衝動に駆られます。そこで次のような手段をとりました。私の泊まった宿の前にはバイクタクシーの連中が多くたむろしています。彼らと日頃からいろいろ親しく話したり日本語を教えてあげたりして仲良くしておき、その中からどこに行くのも一人だけのドライバを決めておいて(ある程度)信頼関係を深めて置きました。それが若干高めのタクシー代を言ってくるようなのですが、それも保険だと思って。その者に夜のプノンペンをいろいろ連れていってもらうことにしました(少なくともドライバからはおかしなことをされることはないはず)。さらに一人だと心細いので、同じ宿に泊まっている日本人で夜の街を出歩いたことのある者も一緒に別のバイクタクシーで行ってくれることになりました。日本人2名とカンボジア人ドライバ2名の4名で・・・。歩くのと違ってバイクに乗っていればそこそこ安心だろうと思って。

 すると、昼間からは想像もできないようなネオンの世界がいろいろあることに驚きました。カジノあり、ディスコあり、風俗関係、などなど・・・・。泊まっている宿や周辺からは想像できないあの汚いはずのプノンペンにこれほどのところがあるのかと・・。プノンペンの北10km少々離れたところには、通称”ベトナム村”と呼ばれるベトナム人が出稼ぎに来ている赤線街もあるらしいです(自衛隊がPKOで来ているとき御用達だったとかいう話)。プノンペン市内にもそのような赤線街もたくさんあるようです。

 ディスコでは、我々日本人2名は入り口でボディチェックを受けなかったものの、いっしょについて来てもらったカンボジア人ドライバ2名はしっかりチェックを受けていました。建物に入るまでに多くのカンボジア人の女の子がいます。ディスコでいっしょに踊る相手をしてチップをもらいため声をかけてもらうのを待っているのか、それとも・・・・。取りあえず中に入りました。入るだけではタダなのですが、中で4人分のビール3本とジュース1本を頼むとカンボジアの物価では相当高目の$8ほどを取られました。我々4名は飲んだりタバコを吸ったり、そして踊ったりと。すると踊っている最中に私をつついてくる者がいます。ディスコの中にも多くの女の子がいるのですが、振り返るとその中の一人の子で「いっしょに踊らない?」とばかりに。隣にあった建物は、カジノ、そしてストリップ、さらに雛壇のようなところに女の子が座っていて指名して別室に行けるようになっていたりと・・・。

 いろいろなところに・・・・行き、思いっきり遊びまくりました。一晩で使ったお金は、ドライバに飲ませてあげた分を含めて私がわずか$30。日本だと何万円もかかるのでしょうが・・

 ところは変わって、カンボジアでもアンコールワットの近くの町”シエム・リアプ”ではほとんど問題ないみたいで、一人で暗めの街を歩き回り、屋台で飯を食べることもしばしばでした(本当は危ないのかも?)。泊まっていたゲストハウスの横に夜には細い真っ暗な道があります。昼間は普通の民家があるようにしか見えないものの、そこには売春小屋があるらしいことが、同じ安ゲストハウスに泊まっている我々日本人(男4名、女4名)の間で話題になりました。さっそくこの8名でそこを探検してみようということになり懐中電灯を持ち出して行ってみると・・・。あるわあるわ・・・。普通の現地の人が住む家としか思えないところに、ピンクの蛍光灯が光って、何人かの女性が家の前にたむろしています。それがこの通りに数え切れないほどあるものですからびっくり。その売春小屋の合間に普通のゲストハウスがあったりするからなおびっくり。話によると$1、$2、$3で相手にしているとか・・・・・・。法律に規制がなくて、お金を稼げるならどんな方法でも・・・。(こういうところでお金を使うのは「援助交際」・・・じゃなくて・・・「国際援助」っていうんでしょうな??)

 広大なアンコールワット遺跡(アンコールワット遺跡は、アンコールワットやバイヨン、アンコールトムなどの複数の遺跡からなる)に行くと、どこともなく子供がよって来ます。彼らは物乞いをするのではなく、観光客を遺跡の中を案内してチップをもらおうしたり、場合によっては、後で自分の親がやっているお土産物屋に連れていったりします。最初は無視してチップをあげませんでしたが、アンコールワットに行ったときに、日本語を上手に話す14歳の男の子に出会いました。最初は無視しようと思いましたが、彼は観光客からもらったチップで月謝$14で日本語学校で日本語をならっていて、母はTシャツ売り、父はポルポト派に殺されたという話を聞いてジーンとくるものがありました。アンコールワットの建物の壁に刻み込まれたレリーフの物語や建物に関するいろいろな説明をしてもらうとガイドブック以上によくわかります。彼とは日本語で遺跡以外のいろいろな話もしました。最後に、本当に感謝の気持ちを込めて「がんばって日本語を勉強してください」と$1紙幣を渡そうとしました。本当は日本円で500リエル(¥20ぐらい)でいいのでしょうが。でも彼はしゃべりませんでしたが「お金はいらないよ」もしくは「そんなにいらないと」とばかりに、私がお金をあげようとする手を払おうとします。それがまたいじらしいこと。でも彼にしっかりと手渡し遺跡の入り口で手を振って分かれました。

 ところで、今回は一応どこの国でも合法的にバイクが乗れるように国際運転免許証を持っていきました。ところがバイクは免許がなくても乗れるのか、単にレンタルしているだけなのか運転できるみたいでした(実際には乗らなかったが)。ただプノンペンではバイクは乗らないほうがいいとみんなに言われました。それは警察がところどころで検問をやっていて通るにはお金を要求してくるということだからです(その検問を知らずに素通り過ぎて銃で撃たれた欧米人もあったそう)。ところが、バイクタクシーの後に乗っていたときに数名の警官(警官というより兵士みたい。自動小銃を持った者もいた)の検問に会いました。運転していないから大丈夫と思ったら、「パスポートを見せろ」と。それがなかなか返してくれないので困っていたところ、「$5よこせ」と言ってくるではありませんか(ここでひるんでは・・)。それでも黙っていると「おまえはお金を持っていないのか?」と聞いてきたので、すかさず「そうだ持っていない」と答えました。それでもなかなか返してくれなかったのですが、こちらがお金を払う意志がないのがわかったらしくやっとパスポートを返してくれました。警官も私腹を肥やすのにたいへんです。

 ひとりあたりの国民総生産わずか$205の国(いつの統計かは知らないが、東南アジアでたぶん最低でしょう)、貧しいみんなは生きるためにお金を稼ぐのに必死でした。次のようなことを言う日本人に出会いました。「我々にとって端金でも彼らにとっては大金。彼らにお金を寄付つもりで払っている」と。そう言えば、バイクタクシーの連中は、冗談で「日本人はお金をたくさん持っているから車を買ってぼくにおくれ」とか、本気で「ぼくは貧乏だから金持ちの君はもっとお金をおくれ」とか。



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