ベトナム DMZ(非武装地帯)ツアー

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ベトナム中部の都市フエ、ここは昔に王朝があったところで数多くの王宮の建物が市内やその郊外に多く点在する。そうそう、かってのベトナムの指導者であったホーチミンが通った小学校も街の中にある。

 ここの都市へは、ダナン市からのミニバスで、フランス人のカップル、イスラエル人と同乗となった。フエに着いたとき、どのホテルに泊まるかみんなのガイドブックを照らし合わせて相談したが、結局運転手が探してきた一泊$10のクーロンホテルに泊まることになった。このホテルは家族的な雰囲気の漂うところで、ホテルというよりも日本の民宿的な雰囲気で、家族的な雰囲気のするほのぼのとするところである。特にカウンターの女の子(いつもいるわけではなかったが)は英語がペラペラでとってもキュート、人なつこくて明るくていつも笑っていて、いつもまわりにいる人々を楽しくさせてくれる。$1ほどの「BEEFなんたら」という夕飯を頼むと、彼女が「これ私が作ったのよ」と持ってきてくれた中華飯のような食事はボリューム満点でおいしかった。部屋はPanasonicの真新しいクーラーが入っていて、バストイレも付いているのはよかったが、お湯をつくるヒーターの調子が悪くて冷水しかでない(これで十分だが)。それよりも過電流によってブレーカーが飛んでしまうことがしばしばあってホテル中が真っ暗になるのにはまいった。

 この都市に来たのは、一昨年ここで知り合って友達になったフエ師範大学の学生達と再会できないかという理由だけである。しかし大学の校内や寮の中まで入っていくことをしなかったためにとうとう会えずじまいであった。

 結局前回まわったことのある市内や郊外にある王宮をレンタサイクル、前に学生達と いっしょに行ったことのあるトゥアンアンビーチにもレンタルバイク($7)で出かけた。ビーチは前に来たときは冬で泳ぐ人はまったくいなかったが、今回は夏まっさかり、テントがたくさん並んでいてその中には売店があって、海にはたくさんの人々が泳いでいる。まずビーチの入り口で入場料らしきものを取られて($1弱)、ビーチに踏み入れるとおばさんが手招きして椅子に座らせた。椅子台として5000ドンほどを支払い、座ると近所の子供らしき売り子が次から次ぎへとやってきて、カニやらピーナッツのようなものを持ってくる。しばらくタバコをふかせて海を見ていると、おばさんは、「荷物はこのパラソルに縛り付けておけば大丈夫だから、泳いでおいで」というような手振りをする。さっそくTシャツを脱ぎ捨てて海に入る。波は大きく泳ぐというより波乗りを楽しみという感じ。男性は普通の海パンだが、女性は短パンにTシャツ(シースルー・・)や普通の水着にTシャツを着ている人もよく見かる。細身のベトナム人が多い中で、ここに泳ぎに来ている人は太めで、中国系という感じの人が多く、水泳も金持ちの遊びかというところ。泳いでいると、一人のベトナム人が話しかけてきた。いろいろと話していると、彼はホーチミン市に住んでいて、仕事でこちらに来たついでに泳ぎにきたということ。ベトナムのいろいろな話をして「楽しいベトナムでの旅行を」という彼の言葉で分かれた。


 さて一番楽しみにしていたのは、レトイフエ・ホテル(以前フエに来たとき泊まったことのあるホテル)で申し込みをしているDMZ(非武装地帯)ツアー。これはベトナム戦争時の南北国境地帯の激戦地だったところを回るツアーで、朝6時頃出て、夜の8時頃に帰ってくるという長時間のもの。予め前日にホテルのカウンターで$15を支払って申し込み、当日の朝6時過ぎにバスが来て乗り込んだ。後いくつかのホテルを回ってバスは人いっぱいに。日本人も参加している者がいるかとも思ったが、結局私一人だけで、後はほとんどがフランス人そして少数だがアメリカ人といったところ。

 最初途中で休憩してバスは海岸の小さな村に到着した。ここで建物に案内されて、中に入ると、そこは戦争時の写真などのパネルやいろいろな武器などが展示されていた。英語のガイドの話によると、ここは空襲を受けて村は壊滅的な状態に陥ったため、地下に長いトンネルを掘り、村全体の人々は地下に住んでいたということだ。我々全員に懐中電灯が渡され、そのトンネルに入る。大人がかがみながらでないと進めない小さなトンネルは網の目のようにめぐらされて二層になっている。通路の横には所々広くなった空間があり、そこは一家族分のスペースだ。中には映画を見たり会議をするための広い空間があったり、便所があったり。

 次にバスはレストランに行き昼食。その後、鉄橋のかかった橋を渡り、向こう岸には大きな記念碑がのあるところで止まる。ガイドの英語がよくわからなかったが、どうやらここの鉄橋は昔の国境で、記念碑は南北統一されたときに建てられたもののようだ。

←(大きなものが記念碑。奥に見えるのが川と鉄橋。この鉄橋は昔の南北ベトナムの国境か)

 さらにバスは海岸から外れて山中深くへと進む。相当進んで盆地のような少し開けたところでバスは止まった。近くの丘に登りガイドの説明が始まる。ここは同等な激戦地で、ベトナム人やアメリカ兵がたくさん戦地した場所らしい。山々に木があまり生えていないが、これは枯れ葉剤をばらまかれたためだということ。地面に布のようなものがたくさん散らばっていたが、この丘はアメリカ軍の陣地でカモフラージュ用のテントのような布だということ。


 さらにバスは奥深く入って行く。すると道ばたの家の様子や道を歩く人々の様子が変化してきた。ベトナム人といっても実は多数民族から成り立っており、ほとんどをしめるのがキン族であり、家は土間に柱を立てたようなものが多く、ズボンをはいていることが多い。ところがここでは高床式の家で、しかも女性は腰巻きのようなものをまとっており、頭には布を巻いている。たぶん「サライ族」という少数民族である。バスは少数民族の村までたどり着き、そこで我々は村の中を歩く。村では鶏が走り回っており、子供がよってくるがカメラを向けると恥ずかしそうに隠れようとする。いかにも特徴的なおばあさんがいたが、彼女は写真をとろうとするフランス人にお金を要求していた。やっと一人の少女を高床の家の下でカメラにとらえることができた

山岳地帯に住む少数民族の少女。平地に住むベトナム人には見られない腰巻きや頭には布をかぶっており、高床式の建物も独特。→

 バスは、さらに奥深くへと進み。山中の畑のようなところで止まった。赤茶けた土の畑ではコーヒー畑がつくられている。歩いていくと左右には大きな穴が見える。これは戦争時アメリカのB29による空襲によるものだ。さらに歩くとたくさんの大きな空襲の穴のところに不発弾や兵士の靴や機体などの一部と思えるものが散らばっているところに出た。戦争時にはここで多くの人々がなくなったのだろう。地元の子供がなにやらさらに入れたものを持ってくる。見ると小さな長方形の金属に名前などが刻まれたアメリカ兵の認識票や壊れた時計やライターなどで、認識票は$1〜$3ほどで買ってくれと言う。今回のツアーでいっしょだったフランス人は「高い!」と言って値切っている。今でもこの周辺からたくさん出てくるのであろうか。(実はここでの写真はとりたかったが、カメラの電池切れで泣く泣く不可能)

 バスは帰路に向かう。ホテルに着いたのは夜8時。1日同じツアーに参加した者同士、みんなとは仲良しになれた。ホテルの屋外のレストランでも何名かと一緒に夕食、別れの挨拶をして、私は自分の泊まっているホテルへと帰った。


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